肖像(ドラゴン、麒麟)-5/12-

明日からもまた、明日もまた。

転戦転居、移動が定期。

まるでジプシーみたいだ。

俺たちはあえてジプシーという言葉を使う。仲間内のジョークだ。なんでも揚げ足をとる世の中への軽いジャブのつもりでもある。

ジプシー

それは俺たちが作った呼び名ではない。だからいい。どうせ俺たちは定住することも定まった土地で戦うこともない。移動することが俺たちの暮らしだから。郷にいれば郷に従え、その中のひとつとして俺たちはジプシーと呼ばれた歴史がある。たったそれだけのことなのに、どこの利権の思し召しか知らないけれど「ロマ人と呼ばねばならない」と肖像画を勝手に書き換えられた気持ちだよ。


ジプシー

それは俺たちが外国に行き、そこに暮らした証。言葉としての証明。

国もなく、定住できない俺たちの歴史がこの地球上に存在していたことの証明。

時に差別を受け、時に虐殺を受けた俺たちのような同胞に対する歴史の証明。


差別も虐殺も多数派同士の戦い、つまり利権の見せしめだ。俺たち少数派は利用されただけ。俺たちの同胞が差別されたことも虐殺されたことも今は歴史になったのに、過去のことであるから現存する殺戮ではないからと今もなお利用されている。


過去の遺恨に終息を決めきれないのは、いまだに多数派同士の戦いに利用されている証拠だ。

肖像画は油絵で描かれている。何度も何度も重ね塗りすればある日ぼろっと化けの皮が剥がれてしまう。

俺たち自身が肖像画を描いていないことがあかるみになるその日に多数派はどう狼狽えるのだろう。

俺たちの沈黙の理由はここにある。

いつの日にか勝手に描かれ重ね塗りされた肖像画が剥がれ落ちる日をほくそ笑んで待ち望んでいるのだ。


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